◆第3章 国民の権利及び義務
●自民党案 第10条(<日本国民>)日本国民の<要件>は、法律で定める。 第11条(<基本的人権の享受>)国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。 第12条(<国民の責務>)この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力に<よって>、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないので<あって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ>、常に<公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。> 第13条(<個人の尊重等>)すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、<公益及び公の秩序>に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 上記は、新しい自民党の改憲案であるが、これは、現行憲法には、「権利ばかり書いてあり、義務がない」という年来の自民党保守派の見解を盛り込んだ形になっている。 これは、現行憲法の「公共の福祉に反しない」という文言に対する批判とも受け取れる。 しかし、下記の資料をみていただきたい。「公共の福祉」に関しては、1949年の丸山真男らによる「公法研究会」において「憲法改正意見」として提出されているものがある。 以下、引用 [第12・13・22・29条]この四つの各条文のなかから「公共の福祉」という言葉を全部削除する。 [理由] ---前略ーーー ところが、この憲法は、この重大な基本的人権の享有に一つの制限を付けている。それが即ち、12・13・22・29条に現れている「公共の福祉」である。つまり「公共の福祉」のためには基本的人権も一定の限界を有するというのである。基本的人権がいくら尊重すべきものであるといっても、他人の迷惑もかまわずにその権利を享有されることはたしかに考慮の余地がある。これを認めるには毫も吝かでない。唯問題なのは、その限界を測る基準が、意味の頗る曖昧な「公共の福祉」という概念に求められたことである。かつて軍閥官僚支配の時代に「滅私奉公」というこれ亦為政者がその内容を自由に解釈しうる漠然たる標語のために、個人の権利が勝手に無視された歴史をもっている我国である。「公共の福祉」という言葉が、再びかっての「滅私奉公」的解釈に利用される惧れがないとはいえない。とくに17・8世紀のプロシア絶対制官僚国家において、この公共の福祉Salus Publica という言葉は、専制君主の便益のために人民の自由を無視し、その財産を 収奪する場合にいつも用いられる常套句であったことを想起する時、民主化の日なお浅い我国でこうした言葉によって基本的人権の限界を示すことは甚だ危険といえよう。基本的人権の極端な主張が、社会になんらかの 危害を及ぼす惧れのある場合は、常に他人の基本的人権を毀損している時である。(中略) その意味において 基本的人権の享有に対する制限も、同じく基本的人権によることとし、「公共の福祉」という如き曖昧な、内に非民主的解釈の余地をのこす言葉は本憲法の根本精神に基づいて、この憲法の箇条から、ことごとく削除することを主張するものである。 上記をみると「公共の福祉」もあいまいである。 まずは、世界人権宣の第29条の一 「すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う。」 という文言を基礎にすべきだと考える。公の秩序などと文言化すべきではない。 【白崎・記】 by shiryouko | 2005-11-13 22:14 | 主権
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