自然法NATURAL LAWは、古代からヨーロッパ文明の大黒柱をなしてきた法思想である。近代における立憲主義や国際法の誕生もこの自然法の遺産なしには理解できない。ところが長らく法すなわちオカミによる上からの統治の手段だった日本では、明治時代以来の西洋化にもかわらず自然法思想は黙殺されたままで、今でも大方の日本人は「自然法」という言葉さえ聞いたことがない有様である。これでは、まともな改憲論議など出来る筈もない。
では自然法とは何か。自然法とは、国家が制定する実定法に先立って人間社会を強制や権威なしに自ずと成り立たせている基本的な法と正義の規範にほかならない。この国家以前の法、書かれざる社会の暗黙の掟という考えは、まず古代ギリシャのソフィストによる自然PHYSISと制度NOMOSの区別に始まり、以来アリストテレス、ストア哲学、中世キリスト教神学をへて、近代の社会契約説や国際法を生み出した。 この国家以前の法はまた、時代や民族の違いを超えてすべての人間社会が良心を以って守るべき普遍的なモラルのことでもある。だから聖書に出てくるモーセの十戒にも自然法の要素がある。それゆえに自然法は、法とモラルをはっきり区別せず、国家の実定法秩序も究極的にはモラルに根拠をもたねばならないとする。そうしたモラルは、すべての人間に生まれながらに備わる人間性に由来する。ただし人間を人間たらしめるものが何であるかについては、理性、生得の社交性、神の似姿であることなど、論者によって見解は分かれる。 この古代以来の伝統的な自然法は、近代になると英国のジョン.ロックによって個人の自然権NATURAL RIGHTSとして再解釈され社会契約説の根拠となった。社会契約説によれば、国家の存在理由は、個人の身体生命財産への権利を不可侵な自然権として保護し個人が幸福に生きられるような諸条件を整えることにある。この国家の存在理由を公的に明記したものが憲法であり、政府による国家権力の行使は個人の自由という立場から憲法によって制限されることになった。自然法には元来国家の在り方を是正し修正するモラルの基準という要素があったのだが、ロックはこの要素を徹底させたと言える。 しかしロックの自然権論は私有財産の擁護という狭い基盤に立ち、また人間を完全に自立した理性的主体とみなす合理主義など、人間論社会論として歪みがあることは否定できない。後にルソーが「すべての人間には他者から好意と慰めを受ける権利」があるとして人間性の権利DROIT DE L'HUMANITEについて語ったのは、ロック的自然権論に対する批判とみなせる。だが今日でも人権思想は、ロック的自由主義の立場から完全に脱皮したとは言い難い。 この社会契約説や立憲主義と並んで、近代の国際法も自然法の娘である。十六世紀までヨーロッパ諸国には、神とローマ教会という共通の上位の権威があった。しかし宗教改革によってこの権威が失墜した結果、ヨーロッパは宗教戦争で荒廃し、何らかの国際的な法秩序の確立によって平和を回復することを迫られた。そして国家と国家の間にはもはや上位の法的権威は存在しない以上、国際法は自然法から派生する他はなかった。そこで十七世紀オランダのグロティウスは、「神さえも従わざるをえない普遍的正義がある」と説いて国際法の父となった。 しかしナポレオン戦争で開幕した十九世紀以降、どの国でも国家主義、功利主義が全盛になり、自然法は急速に影が薄くなっていった。日本帝国の欽定憲法制定に霊感を与えたのも、人民主権論に対抗して神の畏怖すべき権威で君主制を支えようとしたプロイセンやロシアの神聖同盟だった。他方では、人間の意識は社会構造によって決定されるとするマルクス主義も、自然法的な普遍的人間性という思想を掘り崩した。 にもかかわらず二十世紀になってある程度自然法が全人類の普遍的なモラルの道標として再生した背景には、二度の世界大戦の前代未聞の惨禍がある。ナチの「平和と人道に対する罪」を裁いたニュルンベルク国際軍事法廷も、その究極の法的根拠は自然法にある。そして1948年に国連総会で満場一致で採択された世界人権宣言や戦後に発展したさまざまな国際人道法は、今までのところ自然法思想が歴史的に到達しえた最高の水準を示すものと言えよう。(了) by shiryouko | 2005-07-15 19:43 | 自然法に関して
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